11 首をかしげるばかり(11月)




智恵理さんと初めて会ったのは、数年前の5月だった。
そのころ私はとあるCS局の連続ドラマの製作準備に入っていたのだが、そのCS局というのはいわゆるセクシーチャンネルで、当然ドラマにもお色気要素がかなりある。したがってヒロインの条件は@裸およびからみが可能 Aなおかつ演技もそこそこ出来ること、となり、局のプロデューサーがAVモデルの事務所に連絡を取って「企画単体クラス」と言われる女性を何人か集め、オーディションを開くことになった。場所はそのCS局の一室。私のほかに2名の局プロが立会い、簡単な面接とセリフの読みを行なったのだが、その最後の一人が当時19歳の智恵理さんだったのである。落ち着いた外見のせいか、最初は年齢よりも大人びて見えたが、喋ってみると明るくざっくばらんで、しかも崩れたところがない。適切に敬語も使え、きちんと育てられたお嬢さんという印象が強く、それまでの何人かの女の子たちとは、明らかに雰囲気が違っていた。

智恵理さんさんと言っても、当然本名ではない。AVモデルの名前は、いわば源氏名のようなもので、本名とは何の関係もないのである。しかし名前以外の経歴はだいたい本当のことを語ってくれたようで、現在は都内の大学の2年生で実家から通学していること、この仕事は、女優へのステップになると考えてやり始め、先月1本目の撮影をこなしたばかりであること、高校時代から付き合っている年上の彼氏がいるが、ビデオに出ていることは当然秘密だということなどを、悪びれた様子もなく、実にあっけらかんと語ってくれた。
「でも、万一自分が出たビデオを彼氏や兄弟が見たらどうするの?」
と聞いたら、
「いや、絶対認めないですね。だって、これは私じゃないですから」
とケロリと言い切ったのが印象的だった。

彼女は今はまだ19だが今年中に20歳になるということで、当時40歳だった私のちょうど半分の年齢だった。つまり私が現在の彼女と同じ20歳になったころに、彼女は「オギャー」と生まれたことになる。それくらい年が離れてしまうと、家庭でのしつけや学校での教育、それに育ってきた社会環境そのものもかなり違うだろうし、形成された価値観や判断力に大きな隔たりがあったとしても仕方がないのかも知れない。

それにしても、私がどうにも理解できなかったのは、
@お金のため、というある種の割り切りではなく、「女優へのステップ」だと本気で信じて(信じ込まされて)やっている
A「女優へのステップ」のために必要だと言われれば、カメラの前で裸になったり、知らない男性と性的行為をすることがそれほど抵抗なくできる
Bそしてそういう行動について、後ろめたさ(彼氏や親に対する申し訳なさであるとか、もっと根源的な罪悪感)があるように見えない
C映像というのは半永久的に残る、したがっていつ誰に見られるかわからない、ということの怖さがわかっていない
などの点だった。

中学くらいからドロップアウトしてセンター街あたりを徘徊しているというわけでもなく、そこそこの大学に通うくらいの知性を持っているはずの女の子が、現代ではこういう状態なのか、と、かなり暗澹たる気分になったのは事実だ。しかも、さっきも書いた通り、本人はスレたところは少しもない、ものすごく性格のいい女の子なのである。やはりここ20年くらいで日本人の道徳観が大きく変わったというべきなのか。電車内での化粧に象徴されるように、いわゆる世間一般に対しての「恥」の概念はもはや消失してしまったのだろう。だから、身内が見ない(はずの)ビデオで何をやっても本人は恥ずかしくも何ともないのである。それからまた、彼女が生まれた1980年代前半くらいからホームビデオが本格的に普及し、それと同時に、AVが巷にあふれたというのも関係していると思う。それまで、男女の営みを扱ったロマンポルノや裏本といったメディアにはどこか陰の部分があったが、村西とおるなどがAVで「明るいエロ」をやり始めた1985年ごろから、そういった後ろめたさが見る方にも作る方にもなくなっていった。そんな時代の変遷の中で、S嬢は育っていったのである。
「飯島愛はAVから女優になったでしょ。そういう人、他にもいっぱいいるよ」
とプロダクションの人間から言われて素直に信じてしまうほどに、ある意味AVというのは市民権を得てきているということなのだ。生まれて、物心ついた時にはAVがあった世代にとっては、AVに出ることにも、われわれが思うほどの抵抗はないのだろう。

などと、智恵理さんと面談をしつつ延々考えたのであった。その後、キャスティングについては一任する、とプロデューサーに言われたので、私は数日かなり悩んだ後、智恵理さんをヒロインにすることに決めた。彼女の印象はとてもよかっただけに、あまりAV業界には深入りしてもらいたくなかったのだが、しかし私の作品には出て欲しいという矛盾した気持ちがあった。「セクシーチャンネルで流すと言っても、自分のはAVではなくれっきとしたドラマだから」というのは一応口実にはなる。しかしそんなのもしょせん屁理屈であり、裸になって男とからむことに変わりはない。智恵理さんの裸やからみを見てみたい気持ちと、見たくない、やらせたくない気持ちは同じくらいだった。人間というのは実にアンビバレントな存在だと、こういう時には強く思う。先ほどから「日本人の道徳観が変わった、恥の概念がなくなった」などと評論家ぶって嘆いているが、それでいながらそういう、ある種「恥」の欠如した若い女性がいなければ今回の作品は撮れないのであり、作り手としての私は困るのだ。自分で裸やからみの出てくるシナリオを書き、なおかつ演出までしておいて、それで「日本人に恥がなくなった」などというのは笑止千万である。しかし、そのどちらも本音としてあるのだから仕方がない。
「性」にまつわる人間の感情とは、つくづくねじくれたものだと思う。私に限らず、安易にAVに出てしまう若い女性のモラルの低下を嘆く人は少なくないと思うが、そういう人も時にはAVを見たりしてストレスの解消に役立てているのだ。要するに、出る女の子側としては「彼氏や親兄弟が見るのは困るけど、現場は知らない人ばかりだから割り切ってやれる」のであり、一方、見る男の立場としては「彼女や親族が出るのは困るけど、知らない女の子が出ているものは割り切って見られる」と言ったところだろう。人間の論理というのは実に都合よくできているものだ。

さて、こうして彼女を主役に据え、6月中旬、いよいよ撮影は始まった。無気力なフリーターの男と予備校生の女が知り合って同棲を始めるが、ささいな感情のすれ違いから次第に関係が歪んでいき、やがて破局が訪れ…、というようなストーリーで、出演者はほとんど2人だけ。したがってメインの男優も智恵理さんも出ずっぱりだ。しかもシーンの9割は室内。「ベティーブルー」とか「LIES/嘘」みたいな濃密路線を狙ってみたのだが、白く繊細な智恵理さんの肉体が、筋肉質の男優にもみくちゃにされていくのを見続けるのは、撮影だと割り切ってはみても、実に苦痛を伴うものであった。もっともそれは私の半端な感傷みたいなもので、当の智恵理さんはそんなことはお構いなし。演技初体験にも関わらず、困難な2役(女とその姉)に挑戦、長いセリフもがんばってきちんと全部覚え、脱ぐべきシーンでは惜しげもなく脱ぎ、まさに堂々のヒロインぶりであった。ただ、私の演出が何だか腰が引けていて、画面全体からあまりエロチックさが漂ってこなかったのが悔やまれるところである。

現場そのものは、智恵理さんのあっけらかんとしたキャラクターのおかげもあってなごやかに進んだが、唯一頭痛の種だったのが、30分×3話(全90分)の長尺作品にも関わらず撮影が1週間弱とかなり短かったことで、当然撮影は連日早朝から深夜におよんだ。しかも困ったことに自宅から通っている智恵理さんには門限(!)があり、関東近県のかなり奥地まで12時までに帰宅させなくてはならなかったのである。こちらもどうにか彼女の出番は10時までには撮り終えるようにがんばったが、それでも時間をオーバーしてしまうことがあった。そんな時S嬢は終了とともに現場を飛び出て駅まで疾走、現場には脱ぎ捨てられたストッキングがそのまま残り…、なんていうことも。今となってはいい思い出、と言っていいのかどうかよくわからない。結局門限に間に合わず、親のひんしゅくを買ったことも2回ほどあったようだが、彼女は大学のサークル活動だと言い訳していたらしい。現場ではほぼ1日すっぽんぽんでハードな撮影をこなし、その1時間後には帰宅して、母親に「サークルのミーティングが伸びちゃって〜」と屈託なく笑う。大したサークル活動である。そんな智恵理さんの心情は彼女にしかわからないが、撮影の合間やその後の電話でのやり取りから察するに、あまり「後ろめたさ」はなかったようだ。そんなこんなで撮影はどうにか終了。その1ヶ月後には無事に作品も放送されて、このプロジェクトは幕を下ろした。

後日談というほどでもないが、智恵理さんはこの作品を最後にAVモデルの仕事を辞めた。本当はあと何本か仕事が決まっていたようだが、裸になることが本当に女優へのステップになるのか疑問を抱いたようで、どうにか事務所と話をつけたらしい。その後は、別の方法で女優への道を歩き始めたかと言えばそんなこともなく、そもそもそれほど女優をやりたい気持ちもなかった自分に気がついたのだという。これは、撮影を終えてしばらく経ったころ彼女から聞いたことだ。このあたりも、やっぱりよくわからない。若いころは移り気なもの、というだけで片付けてしまっていいのだろうか。

先日、以前私の作品を手伝ってくれて、現在はAVの仕事をしているAくんと久しぶりに会って飲んだ時のこと。やはり彼も「AVに出ている私は普段の私じゃない」とか「カメラが回っている間、体を提供しているだけで、心は別のところにある」などと語る女性を多く見かける、と言っていた。特に、AVだけで生活しているメジャーな単体女優と違って企画モデルの場合、普段は学生や勤め人で、休みの日だけAVに出ているという子がほとんどなので(言ってみればパートタイマー)、当然専業性というかプロ意識は低い。平常の生活とは切り離されたところでの営みだという意味では「私じゃない」というのも一理ある。
しかし、そういう精神と肉体を分離した考え方というのはどこか不自然ではないだろうか。「これは私じゃない」と考える大脳は、まぎれもなくその人のものであり、もしも現場のトラブルでケガをしたり性感染症にかかったりした場合、ダメージを受けるのは他の誰でもない、その人自身の肉体なのである。現代はとかく物心二元論を高級な理論のように掲げる傾向があるが、私は肉体こそが自己であり、肉体を離れた精神というのは存在しないと考える方なので、そういった「彼女たち」の言い分には首をかしげざるを得ないのである。だがこれも、生まれた時からAVがあった世代ならではの、ごく自然な割り切り方なのかも知れない。


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